髙橋大輔らしさとは③
ついに来ました【心】編。
なんつーか、言葉にするだけ野暮だよなあと思ったりもするのですが。
まあ始めてしまったものはしょうがない。行きましょう。
フィギュアスケートというスポーツは本人の気質が本当によく表れるスポーツだなあと思います。人柄も含めて好き、ってファンが多いのは、演技自体に人柄が出るからというのも、あるんだろうな。
しかも高橋大輔は特にそうだと思う。
なんというか、どんなジャンルを滑っても、ああ高橋大輔ってこういう人だよな、と感じる。
カッコいいプログラムでは、観客を誘うことに特化してる。そして乗せられたらどんどん楽しくなってきちゃった、っていうお調子者っぽいところをよく感じるw
重たい曲やドラマチックな曲でも、気迫や情熱はあるけれど殺気とは違うのが、彼らしい。
でも、クライシスやビートルズのような曲が、1番らしいなあと思う。
人一倍傷つきやすいからこそ、おそらく誰もが経験する類の痛みや哀しみ、さびしさ、そしてそれに寄り添う優しさを表現するのが上手いのだと思う。悲しみは、決して劇的に表現する必要はなくって。だって、普通の日常にも苦しいし哀しいしつらいこともあるし、むしろそういう経験の方が多いかもしれない。そして彼は、乗り越える力とか、悲しみを吹き飛ばす明るさを表現しようとはしない。
むしろ私にとって必要なのはそれじゃない。
落ち込んだ時に暗い曲を聴きたくなったり、傷ついてる人に「実は私もね…」と自らの傷を打ち明けたくなったりする感覚。そういうものの方が、私にとっては親しみがあるんです。だから好き。
なんとなく、水みたいな人だなと思う。
水というか、液体と気体の間の、ドライアイスの煙みたいな流体。それと、アルコール、誘うような香りとか、うねる蒸気みたいな熱。
目には見えず、触れることもできないけれど、確かにそこにあって感じるもの。
決まった形が無いからこそ、広がり、多くの人にコミットする。
試合直前などは体の中に閉じ込めているのに、音楽が鳴り始めた瞬間、そういったものを一気に周りに放出し始めるような感じ。
アメリなんか見てると、身体の輪郭が曖昧になってて、手で触れたらずぶりと沈みそうな気さえする。なかみが空気中に溶け出していて、「無」になっているほど。一体化した空気に、窒息しそうに気持ちいい。
曲を演じるというより、曲に自分を溶かしこんで混ぜ合わせて広げている。
だから、キャラクターを演じるような振付があってもプログラム全体にエモーショナルな流れを感じ、魅力的に思えるのかなあ、と。
とくに情熱や哀しさ、痛みには、ついつい引き寄せられる。「この人には自分が必要なのではないか」と思ってしまうのかな。
ここまで自分をさらけ出せて、エモーションを放出できるのは本人の気質だなと思う。
普段の言動から、本っ当にこのひと無防備だな〜!!!と感じるもの。見てて焦るくらい。
次の記事ではその無防備さについて語ろうと思います。
ここからは雑談。
髙橋大輔は水みたいと評したのですが、そうするとフラメンコは果たして合うのだろうか……。
フラメンコって、押さえつけて押さえつけてそれでも抑えきれなくて迸る情熱の炎、ってイメージなので、大輔さんのようなダダ漏れな人がやるとどうなるんだろうと。
ただでさえスケートは滑るから、横移動もなく複雑なリズムとタップと見栄で魅せるフラメンコは、フィギュアスケートでやるには少し違和感がある。
ポエタやファイヤーダンスとかのあまりガチガチじゃない曲でないと難しいんだろうな。
でも髙橋大輔のフラメンコ見たい!!超見たい!!!男版ファイヤーダンスとかやってくれ~~~ノースリーブ衣装で。
……以上、羽生君のSEIMEIに「絶対合うじゃん!!いいなあずるい!!!」となった結果のぼやきでした。